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【ロウソク祈願四堂巡り】
〜長崎ランタンフェスティバル〜
 

全国的にも知られている長崎の冬の大イベント「長崎ランタンフェスティバル」。
長崎新地中華街の方たちによる、中国の旧正月のお祝いだったランタンフェスティバルは、
今や例年100万人を超える人が訪れるイベントとなりました。

期間中は、彩り豊かな約1万5000個のランタンが街中に飾られ、
さまざまなオブジェとともに華やかな空間を創り上げます。

様々な動物や人の形をした鮮やかな燈籠だけでなく、
皇帝パレードや媽祖行列、龍踊り、中国雑技など見どころの多さも魅力です。
こちらでは、参加型のイベント『ロウソク祈願四堂巡り』を紹介致します。

ロウソク祈願四堂巡りとは、唐人屋敷跡(湊公園会場すぐの唐人屋敷会場)にある
『四堂』(土神堂・天后堂・観音堂・福建会館天后堂)を巡り、
それぞれのお堂に金色で「春節祭」書かれた赤いローソクをお供えすると願い事が叶うとされるものです。

4つのお堂にはそれぞれ神様がまつられており、長崎の歴史や文化に大きく影響を与えた中国文化の原点をみることができます。
史跡を巡り厳かな世界を感じて頂けます。


唐人屋敷跡とは...

唐人屋敷跡は、鎖国時代、中国から貿易のために長崎に来た人たちが生活していた所です。
約。9.400坪敷地に長屋があり、2.000人もの収容能力があったといわれます。
今も往時の面影を残すお堂があり、懐かしい街並みが魅力的です。


唐人屋敷の歴史

1639年、鎖国により日本の外国貿易は中国とオランダの2国のみとなりました。
貿易のために来航したオランダ人は出島に住まわせましたが、
唐人たち(中国人)は、長崎市中に散住することが許されていました。

しかし、密貿易やキリスト教伝播の恐れがあったため、
1689年、江戸幕府は現在の十善寺治区に唐人屋敷を建設し、そこに唐人たちを住まわせました。

唐舟で長崎に着いた唐人たちは、役人の厳しいチェックを受けたのち、
わずかな手回り品のみを持って、唐人屋敷へ入りました。

唐人屋敷は高い堀で囲まれ、わらにその外側は堀や竹垣で囲まれていました。
出入り口には番所があり、人の出入りが厳重に制限されていました。
唐人は、ひとりで外出することは許されず、外出が認められるのは、
唐寺へ団体で参拝するときなどに限られていました。

唐人屋敷の敷地内には、木造の長屋が数十棟立ち並び、
多い時には約2千人の唐人が生活していたといわれています。

1859年、日本が開国すると唐人屋敷を出て、
大浦の外国人居留地や新地に進出した唐人も多く、唐人屋敷は荒れ果てていきました。
その後、1868年に正式に解体され、唐人屋敷は179年間の歴史を閉じたのでした。


唐人屋敷跡に残った四堂...

 
【市指定史跡 土神堂-DOJINDO-】

土神堂(どじんどう)は、元禄4年(1691年)に日本に渡ってきた中国の人々が、
故郷から遠く離れた唐人屋敷での無事な暮らしを祈願するため建立されました。
唐人屋敷に建てられたお堂の中で一番最初に建てられたお堂です。

1784年におこった大火で消失し、唐3か寺(興福寺・福済寺・崇福寺)により復旧されました。
その後も火災や老朽による改修を経て、現在の建物は1977年に復元されたものです。

土神堂にまつられている土神様は、福徳正神ともいわれ、土地や家を守り、豊作、金儲け、治病の神様として中国古来から民間で広く信仰された神様です。
土神堂の広場では、土神様の誕生日(2月2日)にお祭りが開かれ、舞台を仮設し、唐人踊りや劇などが催されていました。


長崎の生活の中にみる土神様...

長崎のお墓には、墓石の横に土神と書かれた小さな石碑が建っているものを多く見かけます。
これは中国の土神信仰の慣わしが、長崎の風習として根づいたものなのです。
同様に、墓石に掘られる名前や文字が「金色」なのも、中国文化の影響といわれます。
『長崎竹線香』長崎竹線香同様に守り伝えられる長崎の独自の伝統文化です。


 
【市指定史跡 天后堂-TENKODO-】

天后堂(てんこうどう)は、海の女神媽祖(まそ)様をまつるため、
1736年に当時唐人屋敷に入居していた南京地方の唐船主たちによって建立されたお堂です。
(媽祖様は天后聖母とも呼ばれます。)

当時、唐人たちは唐舟で季節風にのり海を渡ってやってきました。
その航海の安全を祈るため媽祖像を船内にまつり、
日本に着くと唐人屋敷内の天后堂へお運びしました。

この様子が現在のランタンフェスティバルで「媽祖行列」として再現されています。

このお堂には中央に媽祖様がまつられているほか、
向かって右側に関帝が、向かって左側に観世音菩薩がまつられています。


媽祖伝説...

媽祖様は960年中国福建省の小さな島で生まれました。
幼少の頃から大変聡明だったといわれています。

媽祖様が19歳の頃、家ではたを織りながら疲れてうとうとしていると、
父と兄の乗った船が難破する夢をみました。

媽祖様はとっさに海中へ身を躍らせて、
兄を口にくわえ、父をつかんで懸命に泳ぎました。

そのとき、母に起こされ、返事をしたため、兄を離してしまいました。

ちょうどそのとき、海難事故により、
父は助かったが兄は溺れて亡くなったという知らせが届いたのでした。

また、媽祖様が23歳の頃、桃花山という山で金精と水精という妖怪が
付近の作物を荒らし、村人たちを困らせていました。
金精は千里眼、水精は順風耳という別名をもち、千里眼は千里先まで見ることができ、
順風耳は千里先のかすかな物音も聞きつける能力がありました。

両精をみつけた媽祖様がハンカチを一振りすると、
両精は目が眩み、手がしびれて、ひれ伏したのでした。
媽祖様は両精を許し、海上を守る仕事を手伝わせることとしたのです。

そして、媽祖様が28歳のとき、人々を救いたいと、
家人に別れを告げ、神となって五色の雲に乗って昇天したといわれています。


 
【市指定有形文化財 福建会館天后堂-FUKKENKAIKAN-】

 福建会館(ふっけんかいかん)は、唐人屋敷が解体されたのち、
1868年に福建省南部出身の貿易商たちの会所として建設されました。

唐人屋敷のあった時代、この場所には聖人堂というお堂が建っており、
その基盤の上に福建会館を改築したという記録が残っています。

1888年の火災で焼失し、1897年に現在の会館が再建されましたが、
会館本館の建物は原子爆弾により倒壊し、正門と天后堂が現存しています。

このお堂には2体の媽祖様がまつられており、ランタンフェスティバルの「媽祖行列」では、
小さい方の媽祖様を、寺町の興福寺までお運びします。


 
【市指定史跡 観音堂-KANNONDO-】

観音堂(かんのんどう)は、1737年福建出身の唐船主によって建立されたと考えられています。
その後再建やいくどかの改修を経て、現在の建物は1917年改築されたものです。
入口のアーチ型の石門は唐人屋敷時代のものといわれています。

本堂に向かって右側に慈悲深い仏として中国で古来から慕われている
観世音菩薩が、向かって左側に商売繁盛の神である関帝がまつられています。


関帝について...

関帝は三国志で有名な武将、関羽雲長が神格化されたものです。
三国志において、義侠心と忠節心に富んだ人物とたたえられた関羽は、
文武兼備の武将として古くから尊敬を集めており、
特に清王朝においては守護神として手厚くまつられていました。

武神として信仰されるのはもちろんのこと、信義に厚く理財に精通しており、
ソロバンを開発したとも言われることから、財神としても信仰を集めています。



受付場所...

受付は湊公園会場から歩いて5分程度、土神堂前にあります。
こちらで"金色文字で「春節祭」と描かれた赤いロウソク4本"と
"干支をモチーフにしたストラップ"を購入いただけます。

「4堂」は全て歩いてすぐの所にあり、20分程度で全てを回りきることができますので、
小さなお子様も一緒に回っていただけます。
ご家族や大切な方と気軽に楽しんで頂けるところも魅力ですね。

天后堂や福建会館では媽祖行列だけでなく、少林寺拳法、太極拳、空手道の演武や
胡弓の演奏、中国雑技など連日イベントが行われています。

長崎ランタンフェスティバルへお越しの際は、
是非「四堂巡り」で長崎の歴史を感じながら、
大切な願いをかなえてみてはいかがでしょうか?




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